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死刑より重い罪とは?

  「国籍没収刑」とかどうでしょうか。 「死刑より重い罰って作れないのでしょうか?」という問いに対して、「国籍没収刑」という案を挙げるのは、一見奇抜に思えるかもしれません。しかし、よく考えるとそこには深い意図や問題提起が込められています。 まず、死刑という刑罰は「命を絶つ」という究極の刑であり、それ以上の罰は存在しないと一般的には考えられています。しかし、近年では「死よりも重い」とされる苦痛や社会的制裁に注目が集まるようになっています。たとえば、終身刑や無期懲役における長期の孤独や社会からの完全な隔離などは、受刑者にとって極めて重い精神的・肉体的負担となることがあります。 このような背景の中で、「国籍没収刑」というアイデアが出てくるのは、国家からの「存在の否定」という意味合いを持つからです。国籍とは、その人が所属する国家との法的なつながりを意味し、基本的人権の保障や移動の自由、教育・医療へのアクセスなど、あらゆる社会的保障の前提となるものです。国籍を失うということは、すなわちどこの国家にも属さず、どこの社会にも受け入れられない「法的幽霊」になることを意味します。 これは単なる罰則というよりも、「生きたまま社会から完全に切り離される」という強烈な社会的・精神的制裁です。居住地も、法的な保護も、身分証も、権利も、何も持たない存在として生きなければならない現実は、多くの人にとって死以上に過酷なものになる可能性があります。 もちろん、「国籍没収刑」は現代の国際法や人権思想から見れば極めて問題があり、現実的な制度とは言いがたいものです。しかしこの提案が持つ意味は、「死刑以上の罰」というテーマに対する一つの批評であり、国家の力や人権の意味、そして罰とは何かという根源的な問いを投げかけているとも言えるのです。

生活保護を50万円にすると、どうなる?

 「生活保護を月50万円に」という提案は、夢があるように聞こえるかもしれませんが、実は私たちの生活がかえって苦しくなる可能性もあると考えます。 なぜなら、生活保護は国の税金で賄われており、支給額を大幅に増やせば、その財源をどこかで補わなければなりません。その結果、消費税の引き上げや、所得税・住民税の増加といった形で、一般市民がより多くの負担を背負うことになります。 さらに、政府の財政が圧迫され続けると、国債の乱発によって極端な円安が進みます。そうなると輸入品の価格が跳ね上がり、物価が爆発的に上昇する恐れもあります。たとえば、 スーパーの食パン一袋が1万円、卵一パックが3万円、キャベツ一玉5万円 といった現実離れした価格が当たり前になるかもしれません。これでは、支給額がいくら増えても、実質的な生活水準は今よりも下がるでしょう。 つまり、生活保護の金額だけを見て「多ければ幸せ」とは限りません。大切なのは、社会全体のバランスと持続可能性。支援が本当に必要な人に、必要な支援が無理なく届く仕組みを整えることが、私たちにとって最も現実的で望ましい道ではないでしょうか。

社会的弱者について

 「弱者を切り捨てる社会」も「弱者を切り捨てない社会」も実のところ、対して違いはないと思います。 結局、どちらの社会もピラミッド型の階級社会分布図で上の方には常に強者が君臨している限りは、下の方は惨めな生活を強いられる。 つまり「惨めに排除されるか 」、「惨めに受容されるか」の違いでしかない。 弱者が反旗を翻した出来事もあります。ポルポト政権による大虐殺です。 しかし、ポルポト政権のような極端な「強者打倒」は、結局のところ、新たな暴力と支配を生むだけでした。弱者が権力を握った瞬間、その「元・弱者」もまた支配の構造に組み込まれ、「新たな強者」となって他者を抑圧し始める。この歴史的事実が示すのは、「弱者を救う」という理念すらも、体制や思想によっては容易に残酷な道具へと変貌するということです。 では、どうすればいいのか。 根本的な問題は、「強者か弱者か」ではなく、「構造が固定されていること」にあります。固定された階級構造の中では、人の尊厳は力や地位で測られ、そこから漏れ落ちた人々は「切り捨ててよい存在」として扱われる。 必要なのは、強者と弱者の役割を曖昧にすること。流動性のある社会――誰もが落ちる可能性があり、また、誰もが這い上がれる可能性もあるような社会であれば、「切り捨てられる恐怖」も「切り捨てる正当化」も生まれにくくなる。 「救済」や「平等」といった言葉に酔う前に、私たちはまず、「構造」を疑い、「自分の手がどこに加担しているのか」を問い続ける必要があるのではないでしょうか。