社会的弱者について
「弱者を切り捨てる社会」も「弱者を切り捨てない社会」も実のところ、対して違いはないと思います。
結局、どちらの社会もピラミッド型の階級社会分布図で上の方には常に強者が君臨している限りは、下の方は惨めな生活を強いられる。
つまり「惨めに排除されるか 」、「惨めに受容されるか」の違いでしかない。
弱者が反旗を翻した出来事もあります。ポルポト政権による大虐殺です。
しかし、ポルポト政権のような極端な「強者打倒」は、結局のところ、新たな暴力と支配を生むだけでした。弱者が権力を握った瞬間、その「元・弱者」もまた支配の構造に組み込まれ、「新たな強者」となって他者を抑圧し始める。この歴史的事実が示すのは、「弱者を救う」という理念すらも、体制や思想によっては容易に残酷な道具へと変貌するということです。
では、どうすればいいのか。
根本的な問題は、「強者か弱者か」ではなく、「構造が固定されていること」にあります。固定された階級構造の中では、人の尊厳は力や地位で測られ、そこから漏れ落ちた人々は「切り捨ててよい存在」として扱われる。
必要なのは、強者と弱者の役割を曖昧にすること。流動性のある社会――誰もが落ちる可能性があり、また、誰もが這い上がれる可能性もあるような社会であれば、「切り捨てられる恐怖」も「切り捨てる正当化」も生まれにくくなる。
「救済」や「平等」といった言葉に酔う前に、私たちはまず、「構造」を疑い、「自分の手がどこに加担しているのか」を問い続ける必要があるのではないでしょうか。