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9月, 2025の投稿を表示しています

神について

 神が全知全能と言うならば、あらゆるものに姿形を変えてあなたを試してくるだろう。 時に誰かが落とした大金が入った財布、時に物乞いをする人やホームレス、 或いは怪我や病気で道端にうずくまる人だったりもする。 人の心を逆撫でするものや困っている人間や恵まれない人間に 変装することなど神にとっては容易いことだ。 あなたがどういう行動をするのかを見ているに違いない。 何もそればかりではない。 あなたの友人、あなたの家族、あなたの恋人、仕事仲間に折り合いの合わない上司や部下だったりもする。 酷い場合はあなたに危害を加えるもの、あなたの怪我や病気、悩みそのものかもしれない。 しかしでは、悪魔とは何か? 悪魔とは暴力と戦争であり、それは神の試練ではなく人が生み出したものだ。 強欲、傲慢、慢心、悪意、妬み、嫉み、僻みという悪魔は人間の心に潜んでいるのである。 人間は神には決してなれないが、 人間から悪魔になるのは、いとも簡単なことなのだ。

SNS別人口分布図(ネタです)

  【この投稿はネタです】(私もバカです) ・Instagram、YouTube、TikTok  → 読解力ゼロ、将来なんて気にしない。今が良ければそれで良い若者バカの巣窟。 ・X(Twitter)  → 読解力3行、小学生レベルの文章力で日々マウント合戦する、炎上大好き野次馬根性バカの巣窟。 ・Threads、blue sky、mastodon  → 読解力5行、人生に疲れ、Xにも疲れたけどSNSを卒業できないバカの巣窟。 ・note  → 読解力10行、特にこれといった特徴がない無個性バカの聖域。(炎上が起こりにくい)  ・ガールズちゃんねる  → 読解力1行、感情と偏見だけで回ってる、被害者意識バカの井戸端サロン。 ・5ちゃんねる  → 読解力1~10行(気分次第)、もはや会話じゃなく怒鳴り声の応酬。自己矛盾も気にしない老害系バカの終着駅。 ・Facebook  → 読解力20行、説教・自己啓発・人脈マウントが日常。現実で評価されない中年バカの避難所。 ・Quora  → 読解力100行、長文を書くこと自体が目的化した高学歴こじらせバカの博覧会。 ・WordPress  → 読解力∞、文章というより“布教”。読者不在でも語りたい、孤高のバカたちの電脳寺。 ・SNSをやらない人  → 情報リテラシーと時間管理能力に優れた、マジでマトモな人。

「夢」を諦めることについて思うこと。

 夢を追うことが正義のように語られる世の中で、ふと感じたことを書きます。 夢を諦めることって良いことだと思うんです。むしろ、持たなくて良い。 音楽を好きで楽器をはじめてはみたが、練習が苦痛でいっこうに上達しないから、挫折して辞める。別にこれはこれで良いと思うんです。 好きな音楽を好きなように聴いてればそれで良いじゃないですか。 例えば、美味しい外食ばっかり食べてる人がそれで料理の腕が上達するわけではない。 「つくること」と「遊ぶこと」は全然違います。 ただ、人間という生き物は何かに夢中になり過ぎると、 どこかのタイミングで知らず知らずの内に 「つくること」と「遊ぶこと」を混在してしまう。 これが趣味と創作のジレンマだと思うのです。 だから一旦好きなものから、すこ〜しだけ距離を置けば良いんです。 本当にすこ〜〜しだけですよ。 そして自分は「夢追い人」ではなく「オーディエンス」であると定義することで、 理想と現実のギャップをある程度、埋めることができると思います。 「それでも自分の情熱を止められない!」 という人には私の考えは響かないですが … 。

けっこう、みんなテキトーに生きてる。

  けっこう、みんなテキトーに生きてる。 テキトーに生きて、テキトーに過ごして、テキトーに死ぬ。 あなたがFPSゲームに興じている時、 世界のどこかで銃弾に撃たれて人生を終えた人がいる。 レストランで美味しい食事を食べている時、 スラム街でゴミ箱からフライドチキンの残飯を漁って 食べてる子供がいる。 美術館で美しい山岳の風景画に感動している時、 いまだ鎮火しない山火事で火消しをしてる消防団員がいる。 ペットの可愛い犬や猫を抱いている時、 保健所で捨てられたペット達が殺処分されている。 この差はいったい、何なのか? この世界にいったい、何の意味があると言うのだ。 この世界で生きてる自分はいったい何者なのか。 「あなたは何者ですか?」 と訊かれたら、 「どこにでもいる、ただの人間です。」 としか答えられない。 人生に答えなど無いのだろう。 そして、これからも世界はそうやって、 確かな答えを提示することなく、 廻っていくのだろう。

特殊詐欺の注意喚起

  実在する警察署の電話番号を着信画面に表示させる特殊詐欺が急増しております。 これは犯人が電話番号を偽装して電話をかけ、虚偽の容疑をでっちあげ、指定した口座への送金を要求する詐欺の手口です。 警察官を名乗る電話を受けた場合、名前や所属、内線番号などを確認した上で、一度電話を切り、最寄りの警察署にご相談ください。 <詐欺の手口> 1.電話番号を偽装  犯人は、実在する警察署の電話番号を装ってお客さまに電話をかけます。着信画面には実在する警察署の電話番号(末尾が0110)が表示されます。 2.虚偽の容疑を騙る  犯人は、虚偽の事件をでっちあげ、「容疑がかかっている」「あなたは逮捕される」などと騙り、「容疑を晴らすには口座の突き合わせと現金の送金が必要」などと要求します。  また、検察官を装ったり、「資産を保護する」「口座を調査する」などと言って、現金を振り込むよう要求するケースも確認されています。 3.SNSへ誘導  犯人は虚偽の容疑に信憑性を持たせようと、電話からSNSのビデオ通話に誘導し、偽の警察官や警察手帳、逮捕状を提示します。 4.緊急性を強調  緊急の問題が発生していると主張し、折り返し警察署へ電話することを止めようとします。  

ChatGPTに本の寄付について聞いてみた

  「本の寄付」と聞くと一見、社会貢献や善意の活動に思えますが、実際のところは注意すべき点があります。 怪しいと感じるポイント ・寄付と見せかけて実は転売 「寄付された本を必要な人に無償で届けます」とは言わず、実際には古本として販売して、その売上の一部を寄付に回す仕組みになっているケースがあります。つまり、善意がそのまま届くわけではない。 ・寄付金の使途が不透明 「売上の一部を寄付」と書いてあっても、どれくらい寄付されるのか、どこに行くのかが明示されていない団体も多いです。 ・送料や手数料が寄付者負担 「本を送ってください」と言われて、送料は寄付者持ち。本は業者の在庫になり、利益に繋がるだけ、という構造もあります。 ・団体の実態が見えない NPOや会社の名前を使っていても、詳細な活動報告や会計報告をしていないケースだと、単なる“無料仕入れ”に利用されている可能性もあります。 まともな取り組みかどうかを見極めるポイント ・会計報告を公開しているか ・寄付の流れが明確か(本そのものが寄付されるのか、売上の一部なのか) ・具体的な支援先が提示されているか ・寄付者や利用者の口コミが透明か もし本当に社会貢献したいなら、図書館や児童施設、病院、地域のフリースペースなどに直接寄付する方が、確実に「善意が届いた」と実感できますよ。 よくある「本の寄付」企画の実態 表向き:「読み終わった本を寄付すれば、社会の役に立ちます!」 実際:寄付された本は業者が仕入れ扱い → 市場で販売 → 売上のごく一部だけが寄付金化。 例えば「売上の20%を寄付します」と書いてあっても、古本の売値が100円なら寄付は20円。 しかも仕入れゼロ、送料は寄付者負担、残りの80円は業者の利益。 怪しい/要注意なパターン ・寄付額の割合が明示されていない 「売上の一部」とだけ書いてあって具体的数字がない。 ・寄付先がぼんやりしている 「世界の子どもたちへ」とか大きなくくりで実態が見えない。 ・決算や寄付実績の報告がない 「○○円寄付しました」と数字だけ出して、実際の使途がわからない。 まともな企画を見分けるポイント ・きちんと「寄付割合」「寄付先」「年度ごとの寄付金額と使途」を公開しているか。 ・善意だけに頼らず、仕組みを透明に説明して...

知られざる統計の闇—変死者数に含まれる“もう一つの真実”

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  「日本の自殺者数は毎年約3万人——でも、実際はその数倍かもしれない、という話を知っていますか?」 日本の総人口は約1億2500万人であり、日本の自殺者数は毎年約3万人であるが、変死者数は毎年約15万人であると言う話題が、ネット(SNS)で取り上げられる事が度々ある。 遺体の検死の結果で、残っている証拠や遺体が発見された場所などで自殺か、変死かに判断が別れるとの事です。 なので変死者数にカウントされた遺体の中には、精神的な意味では自殺にカウントされる遺体も含まれているのではないかという話です。 WHO(世界保健機関)の基準では、変死者数(毎年約15万人)の半数を自殺者数にカウントしているため、日本の本当の自殺者数は統計上では毎年約10万人を超えています。 以前から日本は自殺者の多い国であると言う認識は日本人は勿論の事、外国でもそう言う認識である。 細かい数字は分からないですが、国がニュースで公表する数字(データ)よりも、だいぶ多くの日本人が自ら命を絶っているという事になります。 何か哲学的な理由を持って自ら命を絶つのは、本当に稀だと思います。 日本の自殺の理由の多くは経済的な問題と言われています。 かつて日本という国は、責任を持って自ら腹を切り命を絶つ「切腹」という文化がありました。 「切腹」いう文化、そのものは現代ではなくなりましたが、生き恥を晒さない為の責任の取り方としては今も引き継がれているのだと思います。 この現実を、私たちはどう受け止めるべきでしょうか?  目に見えない“声なき叫び”に、社会全体で耳を傾けるべきではないでしょうか。  誰もが生きやすい社会を作るために、私たちにできることはあるはずです。  この現実を知った私たちに、できることは何か——考えてみませんか?